テヘラン行きのイラン航空の格安チケットがあった。
学生時代は93年の春、初めて中国北京を訪れた。
当時日本は米国と肩を並べる世界第二位の経済大国。
出稼ぎのイラン人が数多くいた。
機内の乗客といえば、日本人と中国人の少数派と、
8割近くのイラン人だった。
彼らは、久しぶりの帰国の興奮を抑えられず、
酒を酌み交わすどんちゃん騒ぎの様相だった。
客室乗務員らは同郷だったから、
それを大目に見ていたふしはあった。
いま思えば、真夜中に北京に到着するという条件の悪さもあったが、
機内のあのような内情もあって日本人に避けられていたことが、
イラン航空のチケットが格安だった理由かもしれない。
北京に着いたその日の晩は、
空港近くのホテルで一夜を明かした。
翌朝早い時間に、
ホテルから徒歩圏内のバスターミナルへと向かった。
滞在予定の市内のホテルは、空港からバスで約40分かかる中心にあった。
背中に登山用の大きなリュックを背負いながら、
どの路線のバスに乗ればいいのだろうとうろうろしていた私に、
当時はまだ人民服を着た人もいたその人だかりの中から一人、
眼鏡をかけた背丈のひょろっとした現地の大学生が、声をかけてきた。
目的地まで私を連れていってくれるという。
押し合いへし合いの乗客らで混沌としていた車内は、
当時の中国社会の縮図を投影しているようだった。
バスのエンジンの油臭さと、
人民らの胃袋から漏れてくるニンニク臭とがぷーんと滞留して行き場を失い、
すべてが未経験な私に強烈に作用してくるのだった。
バスに揺られながら片言の英語で私たちは会話をした。
目的地のバス停に近づくころだった。
「あなたは次で降りてください」
「運賃は私が払います」と彼がいう。
固辞した私を彼は跳ね返すように固辞して、
この道路をまっすぐ歩けばホテルです。
すてきな旅行をしてください、さようなら。
親切なことをごく当たり前にしてみせた、
純粋な中国人だった。
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