十字路の角地に幼稚園があります。
十字路の縦の4車線は、内陸から海までを貫く地元の幹線道路。
北の内陸側には常磐線が走っています。
幹線道路は、その駅前通りから南へ十数キロ降り十字路まできて、
さらに南へ数百メートル進んだ突き当りの海までをいきます。
東北大震災のあと、海側に巨大商業施設が建てられたおかげで、
休日は、県外ナンバーの混じる渋滞だといいます。
幹線道路に沿う歩道側に、幼稚園の正門があります。
幼稚園の敷地は、けっこうな広さです。
門の両端から道路に沿って上下に伸びる園児の背丈ほどのブロック塀の列の長さは、
十字路で信号待ちをする、
普通自動車にしておよそ10台の数珠つなぎとほぼ同じです。
幼稚園にあったものが切り取られていました。
更地になっていたことを知ったのは、10年以上前のことです。
それ以前に建て替えられていた教室やホールの建物は残されている。
最初に目についたのが、赤や黄色の折り紙で作ったわっかをつなげたお飾り。
窓ガラスの際にたらりたらりと飾られてありました。
幼稚園は、少子化の影響を受けながらも現役でいました。
半分が更地と化し空虚になった幼稚園という全体のなかには、
残された建物と、当時より縮こまって見える園庭と、
端っこのほうにぽつんぽつんと置かれてある、
まだ使い古されていない遊具などが小さく収まっていました。
懐かしさと寂しさの混じる匂いの風に寄せられて、
そこにたまる吹き溜まりのようなものを見ているようでした。
当時、幼稚園は、カナダのイエズス会の管轄にあったはずです。
日本人職員のほか、カナダ人の神父様が常勤されていました。
キリスト教でいう慈愛の精神をもって実践されていた教育だったのでしょう。
園児ながらに私が、神父様も先生もみな優しい人だと思えていたそのことは、
幼稚園で過ごしたなかでのもっともな僥倖のめぐりあわせでした。
幼稚園は、宗教宗派は別にして、地元から広く、障害のある子ども含めて、
多くの子どもたちを受け入れていて、私もその一人でした。
更地になった風景に、思いを馳せます。
芝が敷き詰められ、樹々や草花が植えられていました。
ホールの前の空き地から小道へと続く入り口から入っていく。
数メートル進むとすぐ右手に、
うっそうと茂るスギ林に覆われ守られるようにして、
白の小さな木造平屋が建っていました。
神父様の仮の宿です。
園が終わって一度帰宅し、
夕方になってから、園に遊びに行ったときのこと。
平屋の窓から手を振り声をかけてくださった神父様はもともと、
両頬に深く刻まれたほうれい線でキュッと均等に吊り上げられた口角をもっています。
笑わないときでも笑っているのですが、
私の目に穏やかなものを含んだ丸みのある口角が焼きついています。
スギ林を抜けると、
陽光が届くその場所に、教会が建っていました。
私が生まれるずっと前のことです。
白に近い灰色だったはずの新しく建てられたばかりの教会。
それが長年、風雨や排煙にさらされ色焼もして、
そしてたぶん、
教会に隣接していた鐘を収める塔の天井に、
かなりの生息数のコウモリが巣くっていたこともその理由の1つで、
汚れの見える濃い灰色になっていのだと思います。
教会の外観の印象からはまったく想像できません。
クリスマスの寒い日に教会で賛美歌をうたっていたとき、
私は、あの神々しくも美しい光の世界を垣間見ることになります。