当時通ったカトリック系の幼稚園があります。
実家は田舎の港町にあり、
幼稚園といっても近所に1つの環境です。
私もそうでしたが、
むしろクリスチャンではない子どもが多く通います。
家から近い幼稚園は、
朝は保護者の付き添いなしの私一人で通える距離です。
幼稚園の門を抜けると、園庭が広がっており、
その数十メートル真正面先が園の玄関口で、
丈の低い下駄箱群が行儀よく並び置かれています。
入り口で靴を脱ぎますが、
上り口にはすのこが敷かれている。
そこに両足裏がペタンと密着して伝わってくるひんやり感。
それに浸っていたいよりも先に私は、
その時間さえ惜しく、次の行動へと急ぎます。
足を下駄箱から取り出した室内用シューズに履き替える。
前傾姿勢で廊下を進み教室のドアの前にたどり着く。
始まりギリギリの時間。
もはやこの時点で、私のうしろに続く園児は一人もいません。
ドアを開けずとも、
先生がまだお見えになっていない状況を私は理解し安堵します。
教室内から、
私の五感を通して伝わってくるものがあります。
園児たちの楽しそうなおしゃべりはよどみなく、
教室内のバタバタで連動する椅子や机のガタガタ鳴る音が跳ね、
朝の交流の喜びの表現だったに違いない、園児たちの手足の叩く音がし、
これら感じるものすべが、私の焦燥感を強める要素でもありました。
やわらかでふくらみのある子どもの匂いのようでいて、
園児たちの発せられる汗とは似つくとも似つかず、
工作で造った粘土作品や用具のそれが混在し漂っていました。
園児たちとの戯れにいざ私が参加しようとすると、
折よく先生がやって来られ、あえなくその場はお開きです。
そこからくる満たされない欠落感というものを、
私はずっと抱えていました。
当時を改めて振り返えってしまいます。
朝が苦手で寝坊しがちだったのか、私は。
朝ごはんを食べるのが遅いから、だったのか私は。
幼稚園が嫌い? だったから、私は。
全部違っていて、
いや、仮にそういう私であったとしても、
当時5歳という年端も行かない園児に、
なんの非があろうはずもないのです。
家で私を管理していたのは、主に母の仕事です。
母のためによく言い過ぎの言い訳をすれば、
母は、時間に対して大らかです。
その性格は、今も変わっていません。